夏休みに聞いたおじいちゃんの戦争の話

 

 2011/9/18

text  by  Nagi

 

祖父は、1927年1月28日生まれの84歳だ。親戚から、祖父が太平洋戦争中に中国に行っていたという話を聞いてはいたが、詳しい話を聞いたことがなかった。祖父が見た、戦争とは、どのようなものだったのか。

 

 日本は、当時軍国主義だった。祖父が小学生のころは、「大きくなったら、立派な兵隊さんになりなさい。」と教わったそうだ。祖父は18歳の時、自ら志願して鉄道兵となった。志願した理由は、「食いもんもあるし、楽だな」と思ったからだったそうだ。鉄道兵とは、敵国の攻撃によって破壊された鉄道や鉄柱を修理する兵隊のことだ。祖父は、鉄道十二連隊三中隊二小隊に配属された。下関から韓国の釜山に行きそこから1週間ほどかけて、漢口・楊子に移動した。そして、彼らは、そこで半年間訓練を受けた。この半年間、15人ほどの同じ小隊の仲間とともに民家を借りて生活していた。日本人を敵には回せないと思っていたのかもしれないと祖父は言った。食事は自炊で、風呂は、毎日入ることができるわけではなく、ドラム缶風呂だった。位の高い上官から順に入ることができた。祖父は、若い兵隊なので、後の方だった。朝、点呼のあと、訓練をするという生活をしていた。鉄橋の修理や、線路の保線の仕方、汽車の運転などの訓練を受けた。

 

 隊員全員に小銃や機関銃が支給されていたが、祖父はそれを一度も使ったことがなかったという。また、中国人は優しくしてくれたという。それもあってか、よく片言の中国語で話していた。

 

祖父は鉄道兵として、漢口周辺にある鉄橋が米国の空襲によって破壊されていないか確かめるという任務もあったそうだ。また彼らは、鉄道が空襲にあっては、修理するといったことを繰り返した。

 

そのような生活を送る中で、「九死に一生」の経験をした。祖父は一人で歩いている時に、突然アメリカ軍の機銃掃射に遭った。必死で逃げ、隠れた。弾丸があと一寸のところまで来ていたという。

 

終戦後、日本兵は中国の命令によって漢口の収容所に入っていた。祖父もそこに留まった。収容所でほとんど何もせずに過ごしたという。

 

漢口から上海へ向かう船に乗った。乗る前には持ち物検査があった。船の中で元兵隊と元憲兵の喧嘩もあったという。祖父は、上官にいじめられた人の不満が爆発したのだろうと言っていた。佐世保に向かう途中、灯台がつかなかったことが原因で、長崎の姫島(めしま)で船が座礁した。船が縦に傾いたという。彼らは、一晩をそこで過ごした。次の日、一般の船や駆逐艦などたくさんの船が助けに来てくれたため助かった。港に着くと、白い粉、DDT[i]をかけられた。佐世保の海兵団の宿舎に一日滞在し、久々に風呂に入って気持ちがよかったという。あくる日汽車に乗った。そのとき市民が、「万歳、万歳、ご苦労様」と言ってくれたのを覚えているという。

 

その日のうちに、祖父は無事に山口に帰った。帰った時、祖父の母親は「よう帰ってきた」と喜んだという。祖父は、戦争は終わったんだと思い、ほっとした。祖父が帰ることができたのは、終戦から一年ほどたった昭和21731日だった。祖父は、このときのことを昨日のことのように覚えているようだった。

 

戦争とは、必ずしも攻撃したりされたりすることだけではない。その陰には、国のためあるいは生きるため、家族のために自ら志願し、「戦争」ために働く若者たちがいた。彼らには彼らの戦いがあった。戦争を経験した日本人は、年々減っている。そんな今だからこそ、私たちは戦争体験を語り継いでいこう。誰にもこのような経験をさせてはならないのだ。

 



[i] 戦後、米軍によってもたらされ、多くシラミ退治に使われた殺虫剤。